性差別解消、多様性の尊重。こういった風潮が重要視されている現代社会ですが、歴史を紐解くと、そこにはあらゆる差別、人々の醜い慣習が見え隠れします。中では、「世界一醜い女性を決める大会」も行われていた時代がありました。
そんな哀しく恐ろしい時代、一人の女性が醜さを勝ち取ることに奔走し、大金を稼ぎ出したのです。今日は、そんな世界一醜い女性と呼ばれる海外の昔話「メアリー・アン・ビーヴァン」の人生を紹介します。
醜い容姿に変貌する奇病
1874年12月。ロンドン東部のプレイストウに、街でも美しいと評判の女性がいた。看護師として働く彼女は、最愛の男性と結婚、2男2女の子宝に恵まれ幸せな結婚生活を営んでいました。
しかし、そんな彼女の人生を壊し、あざ笑うかのように、彼女の身体にとある異変が起こるのです。太ったわけでもないのに、日に日に指輪や靴が小さくなっていく。指や足がむくんでしまうのは、女性としてはとくあること。ただ、メアリーの身体はそんなレベルではなく、骨や顔まで、ありとあらゆる箇所が異常に膨れ上がってしまったのです。美しく高い彼女の声も、いつしか男性のようにしわがれた低い声に。
メアリーはこの変化になす術もなく、美しい白衣の天使は見る陰もない醜い人間となってしまいました。
なぜこんなことになってしまったのか。これは「アクロメガリー(先端巨大症)」という奇病で、100万人に3〜6人が発症すると言われ、当時の未成熟な医療では成すすべもなかったのです。下垂体にできた腫瘍が減員で、ホルモンの働きに異変が生じ、成長ホルモンが過剰に分泌。軟骨や骨が肥大化してしまうこの病気は、現代では治療可能となっています。しかし、当時のメアリーは、ただただ肥大化する自らの身体を眺め、耐えることしかできませんでした。
どんどん醜く変化する彼女に、周囲の人は心無い罵声を浴びせるようになります。そんな罵声を浴びせる人間が、最も醜い生き物ですね。
それでもメアリーの心は折れることなく、愛する家族といる限り幸せに暮らしていたそうです。ただ、ここで事態はさらに悪化します。1914年、最愛の夫トーマスが亡くなってしまうのです。
四人の子供を抱え、社会からは拒絶され、メアリーは瞬く間にどん底へ突き落とされることとなりました。醜い外見のせいで職を見つからず、生活はどんどん苦しくなる。それでも、子供を養うためにはお金が必要です。メアリーはひたすら外を駆け回りました。どれだけひどい事を言われても、決して諦めなかったのです。
子どもたちを守るため、見世物小屋へ
そんなある日、彼女の人生を変える出来事が起こります。
とある新聞広告の一面に、こんな言葉が書いてありました。
これは、アメリカサーカスのエージェント、クロードバートラムが掲載した広告。
彼は事業に失敗し、世界中からバカにされながらも、新しい「才能」を募集する最後の試みとして、この広告を掲載したのです。
「子供のためなら、私は何だってやるわ」と、すぐにメアリーは写真を送ります。これがバートラムの目に止まり、メアリーは見世物小屋で己を売ることに。
バートラムはこの時の出来事を、こう語っています。
「メアリーはとても素直な人でした。その巨大で男性的な容姿とは裏腹に、恥ずかしがり屋で我が子への愛にあふれていた。しかし、自分を見世物にすることは気が進まないようだったので、1週間で10ポンドの支給に加え、旅費も負担する。子どもたちの教育に必要なお金は提供する。と約束し、同意を得たんです。」
そうしてメアリーは、小びと、巨人、ヒゲ女、ヘビ男、結合双生児らと共にショーに出演。「世界一醜い女」として、見世物小屋のクイーンの座を得ました。
それから2年間で、彼女は2万ポンドを稼ぐことに成功します。当時の2万ポンドとは、現在の50万ポンドに相当し、日本円にすると約7500万円に相当します。
子どもたちに会う機会はなかなか得られなかったものの、寄宿学校に通わせることができたそうです。もちろん、会えないのはとても寂しいですが、子どもたちはいつも手紙を送ってくれました。その手紙には、我が子の輝く未来が詰まっていて、彼女はそれだけで幸せだったと言います。たとえどんなにひどい言葉を浴びようと、屁でもなかった。
そして1925年、パリ万博に参加するため、一時はヨーロッパに戻ったメアリーでしたが、その後はサーカスで余生を過ごすことに。
その8年後、1933年12月26日、メアリー・アン・ビー・ヴァンは、享年59歳。その人生に幕を降ろしました。「祖国イギリスで埋葬してほしい」という最後の願いを子どもたちが叶え、メアリー・アン・ビー・ヴァンは、サウスロンドンのレディウィル墓地にて、今も安らかに眠っています。
愛する子どもたちを守るため、モンスターとなったメアリー。彼女の心は誰よりも美しく、誰よりも愛情深い母として、今もなお語り継がれています。
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